明石藩領地内 羽岡の丘に観音道場の古跡がありました。万治3年(1660)頃時の藩主松平信之公が此の原野を開拓して近在領民を住まわせ一村をなしたのが現在の鳥羽新田であります。
公は又、村里の発展と福利繁栄を祈願のために家来に命じて大悲水寺(観音堂)を建立し本尊観世音菩薩を安置し奉り村の鬼門除けとしました。境内を整地、寺護持の為、田六畝余を藩の土地台帳から外し幾ばくかの田から獲れる穀類で仏膳日供の費に充てるよう寺の基礎を定められました。
公の遺徳を偲んで、村人は位牌を安置し奉り、没後50年享保20年(1735)に報徳碑が建てられましたが、風化が進んだため平成12年(2000)に建て替えられ現在も圓通寺境内にあります。
松平日向守公は優しい方で領民を慈しんでおられました。
延宝年間(今から300年ほど前)に明石藩の殿様になられ、後に大和の国(奈良県)の郡山や下総の国(茨城県)の古河に移られました。皆がよい殿様と褒めていました。徳川幕府も政治のことについては色々と重要な役につけて高いくらいをあたえました。そして無事一生を終えられました。
仏のおくり名(戒名)は長昌院窓誉江月圓栄大居士と申しまして貞享丙寅(1686年)の8月22日であります。
最初に信之公は、この郡に来られて鳥羽の有力者12人に羽岡(鳥羽新田の旧名)の17町2段8畝21歩の土地を開墾するように言われ、これはよいことをしたと喜ばれて、その人たちに家を建てて、そこに住まわせ、そして色々な賦役をゆるし、そのことを証文に書いて与え、殿様が代わっても変えられないようにされました。とうとう村ができたので、ここを鳥羽新田と呼ばせました。でも、水利がよくないので、旱魃が毎年続いて苦しんでいました。
そこで、寛文辛亥(1671年)の秋に、林崎の用水の溝から水をひかせてくださいと、村の人が願い出ました。信之公は、お城の役人の祝(いわい)段兵衛に用水の関係者とよく談合させ了解させて、用水の幅を2尺拡げ、村の要望に応えました。水門を分けて用水を注ぎ込むことができましたので、村人が殿様の恩愛にお慕いするさまは、あたかも自分の老いたお母さんのように、亡くなられてもこの御は忘れませんでした。
村には観音堂がありました。
信之公は、以前から境内の六畝余りを書類(土地台帳)から外して載せませんでしたから、公のお位牌にお灯明をたくさん上げて供養ができましたし、その上いくらかの田を手放して、毎日のお供えの費用に当てられました。お命日毎に皆様が集まり、称名して公の冥福を祈っています。
今この年は、公の五十回忌に当たりますし、また、観音堂のそばに碑を建てることになりまして、この私(梁田)に公の徳恩に報いたいから、文を書いてくれと頼まれまして書くことにします。
碑の文章に申します。
信之公は、まことに優れた殿様でした
観音菩薩の生まれかわりのような方でした
立派な田を頂きまして
いついつまでも
村の人びとをまもって頂いています。
享保20年(1735)夏四月 明石梁田蛻厳
本名は南無福徳延命地蔵菩薩と言います。有馬のお寺にありましたが、大正15年に圓通寺に来られました。
願いを叶えてくれるお地蔵様と言われており、お地蔵様をもち上げて軽ければ願いが叶うと言われています。願いが足りなかったり、願いが間違っていたりした時はお地蔵様は重く感じます。重く感じたとしても、何度もお祈りすることで、軽くなって願いが叶います。
おもかる地蔵さんを参拝される方は老若男女問わず、願いが叶った方も何度も参拝に来られています。